順風満帆に見える野球人生にあった様々な決断
今回話をしてくれたのは元楽天の横山貴明氏。
早稲田大学出身ということで、縁があり話を聞くことができた。
子供の頃から引退まで詳しく語ってくれた。
「本当はキャッチャーがやりたかったんですよね。ヤクルトファンだったから古田敦也さんが好きで」
子供の頃から体力はあった。肩も強かった。小学校の頃の町のソフトボール投げでは町の新記録を出す程だった。
「昔から投げることに関しては強かったんです。でも小学生の頃はキャッチャーはやらせてもらえなくてずっとサードでした」
中学校ではシニアリーグに所属し、平日は部活に所属しなくてはいけないためバドミントン部を選んだ。
「バドミントンがおもしろすぎて。高校でバドミントンをやろうと思ってました」
本人曰く、野球よりもバドミントンの方が強く、県で3位になる程の腕前だった。バドミントンで高校からスカウトも来ていた。それでも将来のことを考えた結果、高校では野球をするという選択をした。どうせ行くなら1番強い学校がいいと選んだのが地元福島県の聖光学院だった。意外にもスポーツ推薦での入学ではなかった。
「聖光学院は一般受験で入ってるんですよ。中学2年生まで野手をやっていたんです。センスがなかったのかな(笑)。中学3年生からピッチャーになって。しかもサイドスローで。最初から結構スピードも出て。125キロから130キロくらい出てました。でもあまり評価されてなったのかな」
唯一1校だけスカウトがきていて、関東で3本の指に入るピッチャーになれると言われていた。高校入学後は、最初は変化球を投げることができなかった。
「中学生の頃に、まずは真っすぐを磨けと言われて。その言葉を信じて練習してました。入学した時に球種を聞かれて、真っすぐしかないですって(笑)」
それでも、レギュラーになるメンバーはスポーツ推薦が多い中、1年生から試合にでることができた。高校からはオーバースローに変更したことにより、球速も上がった。
高校2年生の時チームは甲子園でベスト8になった。
「ベスト8になったけど全然試合に出てないんですよ。代打で出ました。東浜(現ソフトバンク)と対戦しました」
3年生の時は初戦でPL学園と対戦し敗退。それでも下位指名でも何でもプロには行きたいという気持ちの方が強かったが、大学進学を選んだ。複数の大学からスカウトがきていた。その中から選んだのは、PL学園に負けたその夜に監督に電話があった早稲田大学だった。
早稲田大学入学後はケガに悩まされた。
「高校まではケガしたことなくて。血行障害になっちゃって。手術して投げたらおかしくなっちゃって。六大学野球の時は1シーズンをフルで投げれたことがないんです。ケガが治ればベンチ入りという感じでした」
それでも社会人野球の数球団から声がかかっていた。でも気持ちはプロに行きたいという気持ちが1番だった。結果的に楽天からドラフト6位指名を受けて入団した。
初めてのキャンプは途中で帰ることになった。大学生の最後にケガをした右肩が影響した。その後、ケガが治った後は調子がよくなった。
「なんだかんだ期待してもらってたと思います。1年目から1軍の先発で投げさせてもらいました。2年目も開幕ローテに入ることもできました」
対戦して印象に残っているのは長距離ヒッター。
「西武の中村選手とか。右の外のボール球をライトスタンドのホームランにされたことがあって。ロッテの角中選手もデッドボールになりそうな球を打たれましたね。すごいなと思いました」
2年目は先発で起用されるも思うように結果が残せず、その後は中継ぎにまわった。自分としては先発をやりたい気持ちがあったが上手くいかなかった。
「1試合ダメだったら落ちるなってわかるから、ものすごいプレッシャーでした。投げたくないなと思うこともありました」
3年目は登録と抹消を繰り返しながらも、半分くらいは1軍にいることができた。そして、その翌年に受けた戦力外通告だった。
「戦力外通告って1次2次ってあるんですけど、どちらも呼ばれなくて。でも2次通告の1番最後の日に呼ばれて。通告の時ってスーツで事務所に呼ばれると思うんですけど、自分は秋季キャンプの練習の後に、そのまま呼ばれました」
そこで受けた戦力外通告だった。
「正直自分なのかという気持ちはありました。けっこう早いなって。勝ち試合の1点差や2点差の試合で投げることもあったので。育成になったけど、もう戦力外と一緒だと思っていました。新しい選手も入ってくるし仕方のないことですね」
育成選手として2年在籍した後、退団となった。
そしてトライアウトを受験。そこですすめられたのが海外のチームだった。
「元々アメリカで野球をやりたかったのもあって。メジャーの中継が好きでよく観てました。メジャーとまでは行かなくても1回アメリカで野球をやってみたい気持ちがありました」
その時点でサイドスローに戻した。メジャーのマイナーまでは行かなかったが独立リーグ等のいい話をもらい、最終的にメキシコに行くという決断を下した。
「メキシコはよかったですよ。プロのリーグだったので待遇もよかったです。ただ出入りも激しかったです。元メジャーリーガーがどんどん入ってくるような状況で。中継ぎで4試合くらい投げたらもうクビになっちゃって」
その後は日本に戻り、独立リーグの福島レッドホープスへ入団したが、再度アメリカに行きたいと思った。日本で行われたアスレチックスのトライアウトを受けた。
「その時は調子がよくて。アスレチックスの人も欲しいと言ってくれたんです」
しかし、そのすぐ直後に流行ったのがコロナだった。その年のマイナーリーグが中止となってしまい、入団の話もなくなってしまった。そして、日本に帰国して入団したのが高知ファイティングドッグスだった。
「高知はよかったです。周りの環境もよかったし、サイドスローがようやく自分の技術になってきたと感じました。いい成績も残すことができました」
高知と言えば、NPBに復帰し昨シーズン、ソフトバンクの中継ぎとして活躍した藤井皓哉選手が記憶に新しい。
「あれを見たら、自分もまだやれたかなって思いました。ソフトバンクと西武はいつも試合を観に来てくれてたんですよ」
ただ、当時は好成績を残すも自身では野球選手としては潮時と感じ、現役を引退することとなった。
現在は父親の経営する会社に勤務している。
「自分でも何かやろうとは考えています。野球にも関わりたいけれど、野球だけに狭めたらこの先やっていけないだろうし、野球だけを売りにしたくはなくて」
野球選手の人生は引退してからの方が長い人が圧倒的に多い。野球に携わるのか、そうではないのか引退後に判断を迫られる。横山氏はその立場に立たされた時に、これまでの野球人生と同様自身で判断を下し、第2の人生を歩んでいるように思う。今後の彼の人生も素晴らしいものになることを願っている。
横山貴明 1991年4月10日生まれ
聖光学院で甲子園出場、早稲田大学へ入学し、ドラフト6位で楽天へ入団。2018年に退団し、その後は海外や独立リーグを経て現役を引退。引退後は地元福島で働いている。